創作小説「やられたらやり返すのが普通でしょ?」その2

「……あなた、誰ですか?」
 我ながら、奇妙な問いだと思った。だから、答えを待たずにスマホを裏返した。
 見た目だけで言うなら、何の変哲もないスマホだ。ただ、メーカーとか品番とかはどこを探しても見つからなかった。
 ボディはホワイト、傷もなく、新品に思えるほどに綺麗だ。
 誰かの落とし物なら、駅の人に届け出てこないと、と思う。私はスマホなんて持っていないけれど、それが高価なものであることくらい知っている。落とした人はきっと探しているはずだ。
 でも正直なところ、それに関わることは面倒なことだった。そんなことより、重要なことを考えていたはず。この場から逃げ出すこと。この場というよりも、この世界から。
「そんな、恨みがあるんなら殺せよ。おーい、聞いてる?」
 私がスマホを手に自分の考えの中に沈みこもうとする前に、また声が響いてきた。
 私の手の中で、その小さな画面の中では少年が不満そうに鼻の上に皺を寄せている。作り物のような顔。綺麗な顔。私とそれほど年齢は変わらないであろう、その顔。
 男の子なんて嫌いだった。
 学校で、私が皆にイジメられていても、誰も助けてくれなかった。それどころか、私を無視して、彼女たちと一緒に嗤った。
 みんな、みんな嫌いだ。
 この人だって。
 こんな綺麗な顔をしていても、きっと中身はクズみたいなものなのかもしれない。
 
 昨夜の、あの、男みたいに。
 
 全身が総毛だつ。
 お腹の奥にあるものがせり上がってくる感覚と、強烈な吐き気。私は喉の奥を鳴らしながら手で口を覆い、トイレを探して歩き出した。
 歩きながらスマホを自販機の横にあったゴミ箱に投げ入れる。
 死んじゃえ。
 みんな、みんな、死んでしまえ。
 
 ――恨みがあるんなら、殺せよ。
 
 彼の言葉が頭の中で蘇る。
 さっきのは何だったんだろう。
 テレビ電話ってやつだろうか。だとすれば、あんな綺麗な人が存在しているわけだ。そう、見た目だけなら綺麗。捨てたスマホのように。
 殺せたらよかった。
 昨夜の男は、死ぬべきだった。
 何とかして殺すべきだった。
 
 そして、和香も死ぬべきだ。
 むしろ、彼女こそ死ぬべき存在だ。
 私が死ぬよりも前に、彼女が。
 
 私はさっきのゴミ箱のところに戻った。辺りは行き交う人たちの姿が多く、ゴミ箱に手を伸ばせば奇妙に思われてしまうだろう。
 それでも、私は手をゴミ箱の中に突っ込んで中身を探る。若干の不快感を指先に感じながら、それは呆気なく私の手の中に戻ってきた。
 急いで辺りを見回したものの、誰も私の行動に気づいている様子はなかった。急ぎ足で通り過ぎていくか、手にしたスマホに視線を落としながら歩いていくか、だ。
 私はスマホを胸に押し当てるようにして歩き出す。
 そこで急に、私は学校カバンを持っていないことに気づいた。どこに置いてきた?
 昨夜は持っていた。でも、『あの時』以降は。
 確か、車を引きずり降ろされた時に、一緒に地面に投げつけられた。でも、私はそれを持ってくるのを忘れた。
 いつもの私だったら、慌てただろう。
 買い直すなんてことを考えたら。お母さんを困らせる、と思っただろうから。
 でも、今はどうでもいい気がした。
 
 そうだ、和香を殺したら、私も死ぬのだから。
 
「何だ、やる気になったのか」
 私の胸元でスマホが嬉しそうな声を上げている。「そうだよ、やっちまえば思ったより簡単なんだぜ」
 私はその声を聞きながら駅を出て、ロータリーのところで立ち尽くした。タクシーや車がひっきりなしに行き交う場所。誰も私なんて見ないで通り過ぎていく。でも、ずっとここに立っているわけにはいかない。学校が始まる時間帯に制服で立っていたら、きっと誰かが変に思う。
 私は近くにあるデパートに入ると、そのままトイレの中へと入った。個室の中でトイレの蓋の上から座り、改めてスマホを覗き込んだ。
「あなた、誰ですか?」
 もう一度彼に問いかけると、彼は唇の口角を上げて微笑んだ。
「俺の名前、必要?」
「はい」
 そう応えながらも、私はそれが間違いだと解っていた。「記号として必要です。会話上では、名前がないと」
「へー、うちのボスと同じこと言うね」
「うちのボス?」
 スマホの中の少年は肩をすくめ、僅かにつまらなそうに唇を尖らせる。
「あんたにゃ関係ない。でもまあ、名前は言っておくよ。俺はアクセル。アクセル・ジュニアと呼ばれることが多い」
「アクセル、ジュニア……」
 やっぱり、日本人じゃないんだ。
 こんなに日本語が流暢なのに。
「では、アクセル。あなたは日本人ではないですよね? どこの国の」
「おいおい、おーいおい、それって本当に必要な情報かね?」
「いいえ。ただの話のつなぎです」
「正直で結構だね」
 くくく、と彼は笑う。その肩が震え、その彼の後ろの部屋の様子がそれと同時にちらちらと画面に映ったけれど、ただの壁くらいしか彼の正体に関するヒントはない。真っ白な壁、窓すら映らない。ただ、屋内なのは間違いないと思われる光源。天井の方向が妙に明るい。
「さっき、あなたは殺せと言いました。何を知ってるっていうんですか」
「そうそう、こういう会話の方がいいね」
「私の何を知ってるっていうんですか。何か知ってるから言ってるんですか」
 私が口早に言うのを楽しげに見つめ直し、彼は頭を掻いた。
「俺が知ってるのはあんたの絶望と自殺願望、かな。さっきの、飛び込もうとしてたんでしょ?」
 明るく笑う彼の表情には、ただ無邪気さがあった。
「そうですね」
 私は彼に挑むように、噛みつくかのように続けた。「自殺しようとしました。電車に飛び込んで死んでしまおうと」
「よかったじゃん。成功したよね」
「え?」
 私は首を傾げる。
「あんたは電車とかいうやつに飛び込んで死んだ。身体が分割されたってこと、覚えてない?」
「え?」
 私は馬鹿みたいに言葉を吐き出した。
 何それ。私が、死んだ?
 
 その時、私の耳に響いた音。
 電車の耳障りなブレーキ音と誰かの悲鳴。
 ごりごりという、骨が砕ける音。
 
「……え?」
 私は思わず立ち上がり、トイレから出ようとして、急に目の前に年配の女性の姿が現れて悲鳴を上げた。私がトイレを出ようとした瞬間に、扉が開いてその人が入ってきた。私が悲鳴を上げていることにも気づかず、私の身体を突き抜けるかのようにして立っている場所を入れ替えた。
 そして、トイレのドアが閉まる。
「嘘」
「何が?」
「……死んだ、の?」
「そうだよ」
「何で?」
「自殺したからでしょ? 覚えてないって、面白いね」
 面白い?
 私はそっと手を伸ばし、トイレのドアに触れようとした。でも、私の指先はドアの硬さを感じることなく、まるで水に触れるかのように突き抜けた。
 
 ――何、これ?
 
 私はただ、その場に立ち尽くし、それからぎこちなく首を動かしてトイレの大きな鏡に目をやった。
 でもそこには、誰も映し出されてはいなかった。
 トイレの流れる音がして、さっきトイレに入っていった年配の女性が出てくるのを映し出してくれる鏡だというのに。私の姿はこれっぽっちも映らない。
「恨みを抱えて死んで、楽になった?」
 私の手の中のスマホは喋り続ける。「恨みは消えた? でもさ、自分が死んだことも忘れてさっきの場所にずっと座り続けてるってどんな感じ?」
「うるさい」
 私は思わず持っていたスマホを鏡に向かって投げつけた。
 いや、投げつけたと思った。
 なのに、スマホは鏡に叩きつけられることはなく、宙に浮かんでくるくると回る。その回転は少しずつ緩やかになり、画面を私に向けたまま動きをとめる。
「いや、マジ面白い。この世界って、人間が死ぬと魂が残るんだね、って意味で面白い。だから、思わず声をかけたんだよね」
「何よ」
 私の唇が震えた。「あなた、誰なの。何なの? これは一体、どういうことなの!?」
「さーて、ね」
「この世界って、なんのこと!? あなた、何で私に声をかけてきたの!?」
「だからさっき言ったじゃん。面白かったし興味があったから」
「意味わかんない! 何で私、私」
 
 死んだのに、ここに?
 
 死んだのに、どうしてこの世界は終わらないの?
 
 どうして、喉の奥にせり上げてくる不快感はこんなにも現実と同じように。
 
 私はその場に座り込んで、自分の顔を手で覆った。
 そうか、死んでいるから誰も私を見なかったんだ。
 やっと理解した。さっきまでの行動で、不思議に思ったこと。それは、誰とも視線が合わなかったことだった。
 駅にいる間も。ゴミ箱を漁っていた時も。駅を出て、ロータリーに出た時も。
 もう、学校が始まる時間だというのに、誰も私に気づかない。それは、私が死んでいるから?
 
「どうして、殺せと言ったの」
 どのくらいその場に座っていたのか解らない。だた、長い時間ではないだろうと思う。見上げたらそこには、スマホが先ほどと同じように浮かんでいたからだ。
「私は死んでいる。だとしたら、何もできない。和香を殺せない」
「ノドカって誰」
「……別に、それはどうでもいいよ」
「あっそ」
「でも、私が死んでいるなら。その後、どうなったの。それが知りたい。和香はどんな顔をしたんだろう。お母さんは……泣いてくれた、かな」
「感傷に浸りたいんなら、それは必要な情報かなあ。見にいく?」
「見に……」
 私はぼんやりとした頭のまま、ゆっくりと考える。
 そして、苦笑しながら首を横に振った。
「……やだ。お母さんを見たら、後悔しそうだからやだ」
「なら、そのノドカってやつを殺しに行く?」
「幽霊が何をできるのよ」
 私の喉から嗚咽が漏れた。それなのに、笑い声のようでもあった。涙がこぼれたのは、情けなかったから。
 あの女を殺さなかった自分に幻滅したから。
 自殺する前に、やらなきゃいけなかったことのはずなのに。
 
「ユーレイっていうのか、それ」
 少年――アクセルは興味深そうな顔つきで私を見下ろしている。「俺の世界では、魂というのは存在しない。人間が死ねば無に帰る」
「あなたの世界って?」
「説明めんどいからそれは省略していい?」
「私の時間は無限にあるんでしょう? 死んだ人間だもの。長い説明でもいいし」
「俺の時間は有限だけどね」
「つまり、あなたは生きてるってことね」
「そー。かろうじて生かしてもらってる」
「生かしてもらってる?」
「うん、だって俺、能力者だから」
「能力者?」
「そっちの世界にはいないんだろ? 特別な力を持つやつ」
「例えばどんな?」
「違う世界を行き来したり、何かを操ったり」
「超能力者ってこと?」
「へー、いるんだ? 超能力者、か」
「昔はいたのかも」
 私は小さく笑って見せた。「でも、万が一いたとしても、もう絶滅したんだと思う。もし、今も超能力者と呼ばれる存在がいるのだとしたら、目立たずに生きていけるはずがない」
「なるほどね。生きにくい世界だというのは俺のところとそんなに変わらないのかもな」
 そこで少しだけ、沈黙が降りた。
 彼にもっと訊いてみたいような気もしたけど、どうでもいいことのようでもあった。
 彼もきっと、深い意味で続けた言葉じゃないだろう。だから、私は話の筋を元に戻した。
 
「で、殺すって、どうやって?」
「ああ、それね」
 彼はそこで嬉しそうに手を叩き、画面に顔を近づけてきた。その表情を見て、唐突に気づくことがあった。
「あなた、人を殺したことがあるのね?」
 その問いに対する返事はとても簡単だった。
「うん」
「……そう」
 心が冷えるような気がしたけれども、それは心地よいものでもあった。
 別に、目の前にいるスマホの中の少年が人殺しだろうと、それとも現実ではないもの――私が気が狂った結果に作り出した虚実の映像だろうと、どうでもいいじゃないか。
「俺には特別な力があるのさ。何でもできた。気に入らない相手を殺すのも簡単だった」
「……うん」
「でもさ、俺の住む世界じゃ人殺しって凄い罪らしくてさ、捕まっちまったんだよね」
「私の住む世界でも同じだよ」
「ま、俺がゼロに戻ることは確定してた。能力者じゃないって思われてたからな」
「ゼロに戻る?」
「死ぬってこと。死体どころか細胞一つ残らず解体処分される」
「ふうん」
「でもさ、ただ処分されるのもつまんないよな。色々遊んでいるうちに、ちょっと面白いことが起きてね。こうして部屋に閉じ込められながら生きてる」
「つまり、その部屋から出られない?」
「うん。出られないのはこちらの世界だけの話でね。別の世界には遊びに行けるわけよ」
「……肉体ごと?」
「まさか! 意識だけだよ! 肉体ごと逃げられたら今ごろまた自由の身を満喫してるって」
「そりゃそうだろうけど」
「だけどさ、実体じゃないとはいえ、俺は別の世界に干渉できる。そこで人を殺すことだって可能ってことよ」
「そうなの?」
「そ! だから、手伝ってやんよ。お前が殺したいって思ってるやつ、殺させて?」
 
 邪気のない笑顔。
 それは本当にそうだったろうか。
 人を殺そうとするやつに悪意がないわけがない。でも本当に、目の前にいる少年には悪意なんて全くないように思えた。
 以前の私だったら、恐怖を感じていたかもしれない。
 得体のしれない少年なんか、関わりたくなかったはずだ。
 でも今は。
「お願いします」
 私は冷えた心のまま、ただ静かに言った。
 すると、アクセルは拳を上げて喜ぶ。もう、目の前にいる少年への警戒心は全て消えていた。
「じゃあ、急ごうぜ! 夕方になるとボスが見回りにくるからな、さっさと済ませて……いや、楽しむ時間だけは欲しいから、早く動こう」
 彼がそう言った瞬間、浮かんだままだったスマホが私の手の中に落ちてきた。
 咄嗟にそれを受け止めた瞬間、目の前に光が走った。
「ちょっと、何これ……」
 目を閉じて、恐る恐る目を開けた瞬間、目の前に広がる光景は変わっていた。
 
 学校だ。
 私が通うクラスの光景。さっきまでデパートのトイレにいたというのに、まるで夢の中のような展開の速さだ。
 授業が始まったばかりの時間帯らしい。クラスメイトの誰もが席について、それぞれ黒板を見たりノートに何か書き込んでいたり。
 そして、私が使っていた席は空いていた。当然のように、そこには花瓶が置かれている。
 見たことのある光景だ。
 和香は私に対する嫌がらせとして、花瓶を机の上に置いたことがあった。ただ、今、花瓶に生けられているような高価そうな花じゃなく、春先にその辺りの駐車場とかで生えていそうな貧相な花が飾られていたんだったか。
 面白いものだよね。
 本当に私、死んだんだ?
 本当の本当に?
 私はそのまま、廊下へと向かう。ドアなんて関係ない。身体は簡単にそこをすり抜けてくれる。
 和香は同じクラスじゃない。彼女のクラスは二つ隣。授業中だから静かな廊下を歩き、ドアをすり抜けてその中に入る。そこにいるであろう彼女の姿はなく、その席は空っぽだった。通学カバンも置いていない。
「……いない」
 私がそう呟くと、アクセルが「探すよ」と言ったのが聞こえる。
 探すって、どうやって? と不思議に思った瞬間、辺りに光が走った。まるで、レーザーか何かのような光。映画で見たような人工的な光だった。
 彼女の机と椅子が、まるで燃えているかのように輝き続けている。そして、時間を少し置いて消えた。
 このクラスにいた人間は誰もそれに気づいていない。
 教壇に立つ教師は、チョークで義務的な動きをしながら文字を黒板に残している。
 そして、生徒たちは少し、私語を発していた。教師も気づくだろうという小さな騒めき。でも、誰もそれを気にしないようだった。
「説明会は明日でしょ?」
「さすがに和香、出てこられないでしょ」
「あれだけイジメの話が出回っちゃね。ホント、バカだよねえ」
「警察も聞き込みにきたってホント?」
「でも、迷惑だよね。あの、死んだ子。うちの学校、変な噂出そう」
 あちこちで囁かれるそんな会話を聞いて、喉の奥が詰まったような感覚に襲われた。
 私の死は、ささやかな復讐になったのかもしれない。そこに同情はなく、苛立ちしか感じられない声音ばかりであったことがその証拠だ。
「でもさあ、ホントかな?」
 そこに、悪意たっぷりなひそひそ声も聞こえてくる。
「何が?」
「死んだ子。イジメだけじゃなくてさあ……ほら」
「やめなよ。気持ち悪い」
 
 イジメだけじゃなくて。
 
 ああ、そうか。
 厭だ。厭だ。
 
 みんな、知ってるんだ。警察がきた? じゃあ、知ってる?
 自殺の直前、私が、あの男に。
 
 唐突に湧き上がる感情。憎悪。自己嫌悪。それは不快極まりないまでに純粋に黒い何か。見境なく攻撃したくなるような何か――。
 
「やっちゃう?」
 アクセルが楽しげに囁く。「大丈夫、やれるよ? 気に入らないやつらを消してやれる。消すというよりも、切り刻む方が好みだけど」
「やめて」
 自分でも、何故そう言ったのか納得はできなかった。
 この学校の中で、知り合いはいても友達はいなかった。最初は友達になれそうだと思った人間全てが、私から離れていった。
 大嫌い。
 そう、大嫌いだった。
「私の目的は、和香だもの」
 そう続けた私の声は、情けないほどに震えていた。でも、これが正解だ。
 最初の目的である和香が死んでから、結論を出してもいい。そうでしょう?
 
「じゃ、その目的とやらがいる場所に移動」
 アクセルがそう言った瞬間、また目の前に明るい光が弾けた。
 
「本当、解ってんの?」
 目を開ける前に聞こえた声は、和香のものじゃなかった。苛立ち、とげとげしい感情をむき出しにしたそれは、私の知らない声だった。
 でも、それに続いた泣き声のようなもの。
 それは私がよく知っているもので。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 必死に繰り返される謝罪の言葉は、掠れて今にも消えてしまいそうだった。
「あんたのせいよ。仕事、首になったらどうしてくれんの」
 私が目を開けると、目の前には派手な化粧をした女性が目尻を吊り上げて拳を震わせて立っていた。和香によく似た顔立ちから、それが彼女の母親なんだろうと気づかされる。
 そして、その女性の足元に蹲っているのが和香。
 顔に目立つ痣を作り、怯えたような目つきでその女性を見上げた瞬間、凄まじいまでの蹴りが彼女の胸元に入れられた。
 痛みによる悲鳴は、和香の喉の奥に飲み込まれたようで、くぐもった奇妙な音へと変化した。
「イジメとか! バカじゃないの!? 何で、そんな余計なことをすんの!?」
 そう言いながら、狂ったように蹴りは続く。
 床に彼女が吐き出した血が飛び散るのが見えた。
「……ごめ、んな……」
「ああ、もう!」
 和香の母親は、そこで乱暴な足音を立てながら隣の部屋へと歩いていく。その途端、私の足元で和香が安堵の息を吐いたのが解った。
 
「目的ってコレ?」
 アクセルが呆れたように声を上げる。
 そして、私の声も似たようなものになった。
「そう」
 この、床に這いつくばっている彼女が、私の恐怖と憎悪の対象。
 それなのに。
「何、これ」
 私は茫然と呟いた。
 こんな、情けない恰好をしているのが『あの』彼女なの? こんな、ちっぽけな存在が?
 
 でも。
 和香は床の上で笑っていた。
 
「でもね、圭子。あたしの勝ちよ。あんたは死んで、あたしは生きてる。あんたが負け犬で、あたしはそうじゃない。だから、あたしは幸せなんだ」
 その、歪んだ唇は青紫色に腫れていた。
 ちっぽけな存在かもしれないけれど、確かに憎むべき醜悪な笑顔だった。